織田信長も合理主義的タイプらしい

前回千葉周作を取り上げましたが、織田信長にも5種的な傾向がうかがえます。以下は、ebook『織田信長』より引用しました。このebookは無料です。

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 ◆無辺の扱い

 合理主義者である信長の面目躍如たるエピソードがある。

 天正八年(一五八〇)三月、近江の安土近くにある臨済宗石馬《いしば》寺に、不思議な秘術を用いる無辺という僧が逗留し、諸人の評判を呼んでいた。信長はさっそく安土山に無辺を呼び寄せ、尋問した。

 信長は無辺をつくづくと思案げに見てから質問した。

「客僧の生まれはどこか」

「無辺でございます」

 信長は重ねてたずねた。

「唐人か天竺人か」

「ただの修行者でございます」

 それを聞いた信長は、再び口を開いた。

「人間が生まれるのは三国以外にはない。それ以外とは不思議だ。さては妖怪か。それなら火あぶりにしよう。火の用意をせよ」

 その言葉に、無辺はあわてて釈明した。

「出羽・羽黒山の者でございます」

 この後、信長は不思議な霊験を見せろと、しつように無辺を責めたてた。だが、無辺はなにもできるはずがない。

 そこで、信長は無辺に向かって断じるように言った。

「そもそも不思議な霊力のある者は、姿形や人物が尊いものである。ところがおまえは山賊よりいやしいではないか。おおかた、女、子供をたぶらかして、無駄飯を食って生きているのだろう」

 信長は命じた。

「もう良いから、無辺に恥をかかせてやれ」

 無辺は俗人の髪をしていたので、信長は無辺の頭をところどころ剃らせ、裸にしたうえ縄をかけて追放した。

 ◆石馬寺の栄螺《さざえ》坊

 無辺に関するエピソードは、神秘やまじないの類いを信じない実証主義的な信長の性格を表す例として、しばしば紹介されている。

 まあ、そうかもしれない。だが、私はたいしておもしろいと思わない。この程度のことなら、信長の地位にあれば、私でもやるかもしれない。それよりも、この話には後日譚があって、その方が私は興味を引かれる。

 一旦難を逃れた無辺であったが、その後も丑時法といういかがわしい儀式で深夜に女を集め、淫らなことをしていた。それが発覚したため、信長は無辺を捕らえて殺してしまうのである。

 さらに、信長は石馬寺の栄螺《(さざえ》坊を呼び出して質《ただ》した。

「なぜこのようなあやしげな者を、この城下に泊めおいたのか」

 これに対して栄螺坊は、言い訳がましく答えた。

「御堂の修復をいたしたく、勧進のためにしばらくおいたのです」

 これを聞いた信長は、勧進のためならとこれを許したばかりか、銀子三十枚を与えた。
 
 ◆不思議な信長の行為
 信長の栄螺坊に対する援助はやや意外である。ひとつは、宗教者に対する信長の好意的な態度である。一向門徒を虐殺している信長を知っている我々からすれば、この行為は不思議に思える。

 もっとも、信長は信仰については、特段禁じていたわけではなかった。これは多くの人が指摘しているところである。意外性からすれば、まあまあというところであろう。

 それより、興味を引かれるのは、信長が栄螺坊に銀子三十枚を与えている点である。

 常識的に考えるならば、いかがわしい者とつき合っていたのであるから、処罰されてもおかしくない。ところが、信長はそうしなかったばかりか、金を与えているのである。そこに、信長の本質が現れているように、私には思われる。

 なぜ信長は栄螺坊を許したのであろうか。おそらく信長は、処罰するよりも金を与えた方が、この種の事件の再発防止に効果があると考えたのであろう。

 また、栄螺坊の答えが、信長にとって理解しやすい面があったことも事実であろう。栄螺坊の訴えは、要するに経済的困窮のため職務遂行が困難であるということである。

 信長はもっともな話だと思ったのではないか。合理主義者で、損得勘定にたけている信長にとって、経済問題および職務上の問題というのは非常にわかりやすく、かつ受け入れやすい理由だったのではなかろうか。

 ◆信長の血筋
 信長の合理的で柔軟な発想や行動は、信長の祖父、織田信定の影響のようである。

 当時、川幅七、八キロの木曾川の中程に、津島湊《つしまみなと》と呼ばれる河湊があった。そこには堺や博多より大きい湊町があり、「津島千軒」とういう有力商家が権勢をふるっていた。武田信玄や斉藤道三ですら、それらの商人を利用しようとして手こずっていたとされる。

 ところが、信定は尾張守護代の織田広信の軍奉行という小身でありながら、この利益を一手にしたのである。どうしたかというと、娘を津島の大商人に嫁にやったのである。要するに政略結婚なのだが、商人の家に武士、特に軍奉行の娘が嫁に行くことなど、当時としては絶対有り得ないことだった。それを信定は平気でやれたのである(6)。

 目的のためとあれば手段にとらわれない信定の態度は、後の信長の行動とよく重なる。 信定の息子、つまり信長の父信秀は、その潤沢な金で兵隊を養った。信秀は極めつけの戦争上手といわれた。

 祖父の合理的精神と豊富な資金力、それに父信秀の武将としての能力を、信長は受け継いだといえるだろう。


Tag: 感受性タイプの理解 5種
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